東京高等裁判所 昭和54年(う)199号 判決
被告人 難波勲
〔抄 録〕
論旨は、原判示第二の事実において、会社の従業員今村庚三郎(以下単に「今村」ともいう。)は勤務中の負傷のため現実に二〇日間休業しており、この間の補償金四一、六六四円は当然に受領する権利があるから、これを除いた水増し請求部分についてのみ詐欺罪が成立するにすぎないのに、全額について犯罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるというのである。
よって、考察するに、原判決の掲げる関係証拠を総合すれば、以下の事実が認められる。
一 今村は、昭和五一年八月七日、警備員として雇われ、会社が警備を請負っていた神奈川県高座郡寒川町所在のキリンレモンサービス株式会社相模工場に派遣されて勤務中、同年九月一一日の朝、開門の際に右足踵部に挫創を負い、同町の永田外科医院の診療を受け、同日以降欠勤した。
二 被告人は、人手不足のため、いまだ右医院に通院加療していた今村に出勤を命じ、同人は同月二八日から勤務に就いたが、翌月一二、一三、一五の三日間、右負傷のため休業した。
三 今村は、同年九月二四日ころ永田外科医院に行ったとき、労働者災害補償保険により治療を受けられる旨の説明を聞き、被告人に「会社で怪我したんだから面倒を見て欲しい。」と頼んだ。
四 そこで、被告人は、事務員の持丸政子をして、平塚労働基準監督署から休業補償給付金等を請求するに必要な書類を取り寄せたが、今村が療養のため実際に休業した日数は、前記のとおり二〇日間(昭和五一年九月一一日から同月二七日、同年一〇月一二、一三、一五日)であるのに、右依頼にかこつけて、今村に内密に、日数を水増して保険金を取得しようと考え、労働基準監督署あての休業補償給付請求書兼休業特別金支給申請書(以下「請求書」という。)に、日本企業防衛保障株式会社事業本部長難波勲名義で、今村が療養のため労働できなかった期間は昭和五一年九月一一日から同年一〇月二五日までの四五日間でありその全期間賃金を受けなかったという偽わりの証明をし、同年一〇月二二、三日ころ、社会保険労務士船崎猛正に今村の平均賃金と保険金の計算を依頼した。同労務士は今村を昭和五一年九月一日に雇入れた旨の被告人の報告により、同日から同月一〇日までの賃金を基礎に一日の平均賃金を算定し、前記四五日間に相当する一〇万六、七六四円(休業補償給付金八二、〇二六円、休業特別支給金二四、七三八円)を算出し、請求書及び平均賃金算定内訳書に右の旨を記載した。
五 被告人は、今村に、担当医師の証明をもらってくるように指示し、同人は、昭和五一年一一月一日、前記永田外科医院に右請求書を提出した。医師永田澄夫は、前記の記載に従って、療養のため労働することができなかったと認められる期間欄に、右と同一の期間を記入した。
六 保険金請求手続についての知識を有しない今村は、翌二日ころ、会社事業本部において、内容を十分確認しないまま、右請求書の請求人欄に自己の住所を書き署名押印した。被告人は、船崎社会保険労務士に連絡して、以後の手続を依頼し、同労務士は、同年一二月一〇日今村作成名義の右請求書を平塚労働基準監督署に提出した。
七 同署係官は、書面審査したが、右請求書の記載の虚偽に気づかず、請求どおりの金額の支給決定をし、同月二四日、今村にあてて右金額相当の国庫金送金通知書を送付した。
八 今村は被告人の指示に従い未開封の右通知書を会社の事業部に持参した。持丸政子事務員を介して右通知書を受け取った被告人は、同通知書の裏面に、今村の住所、氏名と持丸政子に右金員の受領を委任する旨の文言を記載し、手許にあった「今村」の印鑑をその名下に押捺し、同月二八日、同女をして指定支払銀行である横浜銀行厚木支店から右通知書と引き換えに現金一〇万六七六四円の交付を受けさせた。
九 被告人は、翌二九日、右金員のうち被告人が独自に計算した四万五、七九八円を今村に手渡し、残り六万九六六円は前記社会保険労務士に対する支払や今村に対する立替金との相殺等に充当した。
以上の各事実が認められる。
右事実によれば、被告人は、今村から労働者災害補償保険金請求方の依頼を受けるや、これに便乗して、現実に今村が療養のため労働できなかった日数を二五日も上廻る四五日とし、かつ、その間賃金を受けなかった旨の虚偽の証明をして、今村名義で休業補償金を騙取することを企て、実行したことが明らかである。しかも、被告人は、右請求にあたって、今村を昭和五一年八月七日から雇い入れているのに、船崎社会保険労務士に対して同年九月一日に雇入れた旨いつわりの申出をし、これを基に平均賃金を算出させており、また、被告人の司法警察員(昭和五二年九月二九日付)及び検察官に対する各供述調書、被告人の原審公判廷における供述によれば、今村が実際に稼働した日数を基にして本来今村に支払うべき賃金は昭和五一年九月分が七一、二〇〇円、同年一〇月分が七〇、二五〇円となるのに、被告人は右各月にそれぞれ九九、〇〇〇円を休業期間の賃金を控除することなく支払ったというのであるから、所論が二〇日間の休業日数に相当する金額として計上する休業補償金等が正当に受領し得るものであるかどうか疑わしく、本件請求を受けた労働基準監督署の係官等は、もし右の事実を了知したならば、請求金全額の支払を拒絶したと考えられる。そして、本件における被告人の一連の行為を総合して判断するときは、被告人は、今村の依頼を奇貨とし、これに藉口して、社会通念上許容される範囲を逸脱する欺罔手段を用いて保険金を受領したもので、全体として違法性を帯び、取得した現金全額について詐欺罪が成立すると解するのが相当である。所論引用の判例(編注・大審院判決大正五年三月八日、刑録二二輯・三三八頁、大阪高裁判決昭和二六年六月二二日、高刑集四巻五号五五五頁)は、本件と事案を異にし、適切と思われない。原判決には所論の事実誤認の違法はな(い)。
(岡村 林 新矢)